常識の壁2

とある独身の年上女性と話していた時のこと。


「結婚願望はありますか」

「ないです」

「そうなんですか。じゃあ子どもが欲しいとかもあんまり考えないですか」

「はい。そもそも、子どもが好きじゃないんで」

「えっ、なんでですか」

この時に自分で言いながら「しまった!」と思いました。


「なんで」という言葉にも様々な使い方があります。
しかし、ここで私が用いた「なんで」は、「女性だったら普通は子どもが好きなはずなのに、なんで貴女は子どもが嫌いなんですか」という意味になります。
人によってはあまりいい気はしません。


冷静に考えれば、いろいろな個性の人がいるのですから、子どもが嫌いな女性がいて当然です。相手を否定するような非常によくない言い方をしてしまったことを後悔し、すぐに謝罪しました。
本人も「世間一般では“子ども嫌い”と言うと奇異な目を向けられるので、息苦しいですよ」と語っていました。


彼女の息苦しさを作っていたのは紛れもなく私です。
多様性というものを認められず、自分の作った思い込みにとらわれ、そこに該当しない人を排除していたことに気が付かされた出来事です。


「なんでですか」「どうしてですか」と相手に聞くとき、

「普通は◯◯なのに、どうしてあなたは□□なんですか。非常識で理解できません。理由を話して私を納得させてください」

そんな心がはたらいていることが、時と場合によってはあるように思います。
知的好奇心を満たすためではなく、自分の持つ先入観を崩されたくないという保身から出る「なんで」「どうして」です。


といっても、所詮は自分が自分に気付いただけの話。
気付いたら気付いたで「気付いた俺は偉い」という心が生まれて、「気付いてない人はダメだ」という武器を手に入れます。
仮に気をつけることができたとしても、人を傷つけなくなる立派な人間になるわけではありません。
煩悩から生まれた思考と言葉はどこまでいっても人の居場所を奪って傷つけることしかできないのです。

合掌

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2018年01月30日