浄土真宗の行

仏教において「行」「修行」とは「仏道を完成しようとする人間(行者)が励む行」と考えられています。


具体的には座禅や唱題など、浄土真宗以外の宗派の行はそのようになっています。


しかし徹底的な他力回向を説く浄土真宗で「修行」とは、『仏説無量寿経』に説かれる「阿弥陀仏が法蔵菩薩の位(因位)の時の修行を意味します。私たち人間が行う修行ではありません。


阿弥陀仏の因位の菩薩――法蔵菩薩は二百十億もの諸仏の国々のさまざまな境涯をご覧になったとき、「行を励んで仏道完成の歩みを進めることができない」と私たち生きとし生けるもの(衆生)の本質を見抜かれました。
むしろ背を向けて逃げている凡夫であるからと、そのものを救うために五劫という永い時間をかけて思惟し、四十八の願いを発し、「衆生のために」とさらに永劫という永い修行を積み、そのすべての功徳を衆生に回施する仏(南無阿弥陀仏)に成られました。

凡夫が修すべき行は、すべて仏さまが代わって行じてくださったのです。浄土真宗の行とは、この如来の行が衆生の行となる「南無阿弥陀仏」、つまり「名号」です。ですから名号のことを「大いなる行」=「大行」ともいいます。


では、私たちが何を為すべきなのでしょうか。阿弥陀仏が修行の功徳のすべてを名号として回向され、私の救いが成立している……私の行いは阿弥陀仏の大悲の救済を承けた上での「報恩感謝の行」です。

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし

親鸞聖人は「身を粉にする」と詠われているほどですから、命懸けの救いをいただいた者としての命懸けの報恩感謝の行ということもできます。

この報恩感謝の行は、決して仏道完成のための「条件となる」修行ではなく、阿弥陀仏の救いが成立した信心の上に「恵まれる」行です。

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2025年09月23日