この世界でのさとりをめざす「聖道門」の仏教や、自力での浄土往生をめざす「浄土門諸宗」との根本的な相違は、「浄土真宗は他力回向の宗教である」に帰結します。
ここが浄土真宗の教義のすべての基礎です。浄土真宗の教えを聞くときには、「私が何をすればいいのか」「自分がどのような人間になればいいのか」という日常的な思考方法を根本的に切り替えることが必要でしょう。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は『教行信証』「化身土文類」に聖道門について次のようにおっしゃっています。
まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
すなわち聖道門の諸教は、お釈迦さまが在世のとき及びその正しい教法が残る滅後500年(1000年説もあり)の「正法」の時代の教えであり、今この「時代」においては時代環境に合わす、この時代に生きる人々の現実にも背いている教えであると見られています。
そして浄土真宗こそがこの末法の濁悪の世の現実の中で「凡夫悪人」がひとしく仏に成る道であると明らかにされました。
「悪人正機」を明確に表現するのも浄土真宗の特徴です。「悪人正機」とは「悪人こそが仏の救いの目当てである」ということです。
一般的には『歎異抄』第三条が有名ですが、その法義の根拠は阿弥陀仏の本願です。また、法然聖人の教示でもあって、『教行信証』の中でも十分にうかがうことができます。
仏教だけでなく、世界の宗教全体を見渡しても「悪人こそが救われる」とハッキリ表現するものはないでしょう。
「悪人も救われる」という表現なら他にも見られます。しかし「悪人こそ」という明確な表現は見当たりません。
普通は「良い人間こそが救われる」「悪い人間は地獄に堕ちる」と考えがちなので、「悪人こそが救われる」とは、いかにも突飛な教えに感じるのではないでしょうか。
ところが日常的な思考方法を根本的に切り替えてみる……つまり他力回向の論理からすると、むしろ自然な表現であると理解できます。
「凡夫悪人こそが救いの目当てである」とは、そのまま「一切の生きとし生けるもの(衆生)が仏と成る」ということです。
老若男女を問わず、善人も悪人も、賢者も愚者も簡(えら)ばず、すべてが斉(ひと)しく仏陀になる仏教こそが「本願の宗教」であり「大乗仏教」です。法然聖人を承けた親鸞聖人の穏やかにして激しい主張が感じられます。
これは同時にお釈迦さまが菩提樹の下を離れ、街に歩みを運ばれたところから出発した仏教の極致ではないでしょうか。
浄土真宗の他力回向の論理は、一般仏教の常識的論理からすると「よこしま」なもので、道理には合わないかもしれません。
だからこそ親鸞聖人は浄土真宗の教えを「横超(おうちょう)」と示されました。「横さま」に「とび超えて」さとりに至る道という意味です。
それは「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず」といわれるように、根拠も伝統もないことではありません。
親鸞聖人は師・法然聖人の指南によって生涯をかけて浄土三部経を極め、師の本意はどこにあったかを表現した人でもありました。
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