年回法要の意義③(七回忌・十三回忌等)

【七回忌・十三回忌等】

百ヶ日・一周忌・三回忌は中国でも営まれていましたが、七回忌・十三回忌等は、日本の風習によって中世以降営まれるようになったようです。

では、七回忌・十三回忌はどのように決められたのでしょうか? 『寂照堂谷郷音集(じゃくしょうどうこっきょうおんしゅう)』第6(大日本仏教全書149巻、p.106)には

七七及び百日・周忌・第三年は十王経に之を配す。蓋し卒哭(百日) 小祥(周忌)大祥(三年)に准ず。七年以後は誰か定むるを知らず。『文粋』及び『性霊集』等の達 願文を按ずるに、上古より定法なし。
四十九日や百ヶ日、一周忌、三年忌(三回忌)といった法要の日程は、死後の裁きを説く『十王経』の教えに当てはめられています。しかしこれらも、そもそもは儒教の作法である「卒哭(百ヶ日)」「小祥(一周忌)」「大祥(三年忌)」に準拠したものなのです。 さらに、七回忌以降の法要となると、誰がその日程を定めたのかすらわかりません。『本朝文粋』や弘法大師の『性霊集』などに収められている古い願文(祈願の文章)を詳しく調べてみても、大昔から決まったルールなど存在しないのです。

とあるように、七年以降については確かなことは分かりません。

ただ、慧琳の『三餘随筆』には

七年忌十七年忌あるは、易経にも反復其道七日来復(その道反りかへる七日来り復る)といひ、消長の道迭ひに至て来り復るゆへに、世間薬を服し温泉によくするに、七日を一周とす。仏教には母の胎内に三十八箇の七日を経て形を成し、中陰も七七なり。この数より取て七年忌十七年を立つとみゆ。 十三年忌二十五年忌は釈書の五明遍の伝に没藤給事通憲の十三廻の事を記して曰「蓋国俗逢亡者十三廻之歲営追薦者十二支終而始迎先支而寓追慕也」これによるに、亡者十三年を経て亡せし年の十二支に當り、二十五年を経て、二たび亡せし年の十二支に當るゆへに追慕の誠を致して法会を営むとみゆ。 三十七年と四十九年とはまた先支に當れども、二十五年忌よりは五十年忌百年忌と次第するは、半百の数を取るなり。その中に吾本山にも、三十三回忌を修するは先支にあらず。三七の数を取るかとすれば、二十三年忌二十七年忌なし。
七回忌や十七回忌があることについてですが、『易経』にも「反復其道、七日来復(その道反りかえる、七日して来り復る)」とあり、自然界の満ち引き(消長)の法則が順番に巡ってはまた元に戻ってくることから、世間でも薬を飲んだり温泉で湯治をしたりする際に「七日」を一つのサイクル(一回り)としています。仏教においても、人は母親の胎内で「七日」を三十八回(266日)経て身体の形ができあがるとされ、死後から次の生を受けるまでの期間である中陰(四十九日)も「七つの七日」です。これらの「七」という数字を取って、七回忌や十七回忌を定めたと考えられます。 十三回忌や二十五回忌については、仏教書(『元亨釈書』)の明遍の伝記に、亡き藤原通憲(信西)の十三回忌のことが記されており、「思うに、我が国の風習として、故人の十三回目の年に追善供養を営むのは、十二支が一周して終わり、また始まって元の十二支を迎えるにあたり、追慕の思いを込めるためである」とあります。これによれば、故人が亡くなってから十三年経つと亡くなった年と同じ十二支に当たり、二十五年経つと二度目の同じ十二支に当たるため、故人を偲ぶ真心を込めて法要を営むのだと見られます。 三十七回忌や四十九回忌もまた元の十二支に当たりますが、二十五回忌の後は五十回忌、百回忌と続くのは、「半百(五十)」という区切りの良い数字を取るからです。 そうした中で、我が本山(真宗大谷派)においても三十三回忌を修めますが、これは元の十二支には当たりません。もし「三と七」の数字を取っているのだとすれば、二十三回忌や二十七回忌がないのは辻褄が合いません。

と述べられ、また玄智の『考信録』巻2には

三と七との類をとるは、礼記(問喪)に死三日而後斂之。(三年間)三年之喪等といひ、釈家の三日見王斎或三回忌等より三の数を用ひ、七世・七廟及初七・累七・胎内五位・経七日・初果極七生等より七の数を用ゆ。十は皆満数なり。十三年は兼て先支に復する故もあり。五十年は易の大衍の数也。百年は十の満数にして両の大衍の数也云云。但し公方家に二十一年忌あり。三七の数を取るといふべき 。又当時の風は凡て二十三年。二十七年を用ひず。二十五年を用ゆ。これも十三年に同く再び先支に複する故なる 。宗々の定めにて差異ありともいへり。 吾門の如きは、本山の式に順ひ七年・十三年・十七年・二十五年・三十三年・五十年・百年・百五十年・二百等とすべし。爾れども仏種従縁起なれば、その土俗にて、二十三年・二十七年を修するも妨あるべからず。
「三」や「七」といった数字を用いるのは、儒教の経典である『礼記(問喪)』に「死して三日の後にこれを斂(おさ)める」や「三年の喪」などとあることや、仏教(釈家)における三日目の見王斎(生前の罪を裁かれる法要)や三回忌などから「三」の数字を取っているためです。また、七世の親、七つの祖廟、初七日やその後の七日ごとの法要(累七)、胎内での成長過程(胎内五位)、悟りの最初の段階に達した者が極まる七回の生まれ変わり(初果極七生)などから「七」の数字を用いています。 「十」はすべてが満ちた区切りの良い数字です。十三回忌は、前の文章にもあったように、亡くなった年の十二支が再び巡ってくる年であるという理由も兼ねています。五十回忌は『易経』における「大衍(だいえん)の数(万物の変化の根源となる五十という数字)」に由来します。百回忌は十が満ちた数字であり、大衍の数の二倍(五十の二倍)でもあります。 ただし、将軍家(公方家)には二十一回忌があります。これは「三」と「七」を掛け合わせた数字(三七の数)を取ったと言うべきでしょう。また、現在の一般的な風習では、二十三年や二十七年は用いず、二十五回忌を用います。これも十三回忌と同じく、亡くなった年の十二支が二度目に巡ってくるためです。これらについては、各宗派の定めによって違いがあるとも言われています。 私たちの宗派(浄土真宗)においては、本山の儀式に従い、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌、百五十回忌、二百回忌などとするべきです。そうではあっても、仏の教えの種はご縁によって生じるもの(仏種従縁起)ですから、その土地の風習に合わせて二十三回忌や二十七回忌を営むことも、決して妨げられるべきではありません。

と述べられ、易経や十二支の影響ではないかと推定されています。

ちなみに、『三餘随筆』に引用されている『元亨釈書(げんきょうしゃくしょ)』の明遍伝に

釈の明遍は、藤の給事通憲の季子なり。才気、諸歌を貫く。給事死して已に十三年、一家の緇素相い会して〔法華) 八講を修せんと欲す。蓋し国俗、亡者十三週の歳に逢って追薦を営むは、十二支終ってまた始まる、先支を迎へて追慕を寓すとなり。
僧の明遍(みょうへん)は、藤原通憲(信西)の末っ子にあたります。彼の才能は、数いる優秀な兄たちの中でも群を抜いていました。 父の通憲が没してから十三年が経ち、一族の中で出家した者も俗世にある者も一堂に会して、「法華八講」の法要を執り行おうとしていました。そもそも日本の風習において、故人の没後十三年目(十三回忌)の年に追善供養を営む理由は、十二支がちょうど一巡して再び始まる年だからです。つまり、故人が亡くなった年と同じ干支を再び迎えることで、ありし日を偲ぶ思いをそこに託しているのです。

とあることよりすれば、十三回忌の法要については、元亨年間すなわち鎌倉時代から営まれていたことが窺えます。


なお、『浄土真宗本願寺派法式規範』(p.157)には、 歴代宗主の年忌法要は、次の相当年次に勤修する。ただし、予修または延修することもある。

・一周忌|遷化の翌年
・三回忌| 遷化の年から起算して第3年
・七回忌|遷化の年から起算して第7年
・十三回忌|遷化の年から起算して第13年
・十七回忌|遷化の年から起算して第17年
・二十五回忌|遷化の年から起算して第25年
・三十三回忌|遷化の年から起算して第33年
・五十回忌|遷化の年から起算して第50年
「以下、五十年目ごとに勤修する。なお、その他の方々の年忌法要は右に準じる」と示されています。

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2026年02月26日