仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身(ほうかいしん)なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。
阿弥陀仏の広大な蓮華の宝座を観想する第七華座観を説くことで、浄土の依報を観念する「依報観」が終わりました。
この次からはその極楽という素晴らしい境界に住んでおられる正報としての阿弥陀仏と観音・勢至をはじめとする聖聚を観想する「正報観」が説かれています。
しかし心に仏を想念する力の弱いものがいきなり八万四千の相好をそなえた壮大な阿弥陀仏を観想するということはできませんから、まずはじめに端正な仏像を観念するという像観が説かれます。
ちょうど極楽の依報を観想する前段階として「日想観」「水想観」といった仮観が説かれたのと同じことです。
ところがその第八像観が説かれる前に「仏を念ずれば、その想念のなかに仏が顕現するのはなぜか」ということを「法界身」とよばれる仏の性格そのものから説明して、観想をすすめるという一段があります。それがはじめに掲げました法界身の経文です。
仏は阿難と韋提希夫人に対して次のように仰せになりました。「仏の華座を観じ終わったならば、次にそこにお坐りになる阿弥陀仏を想いなさい。想えば仏は障りなき智恵をもってよくしろしめして、その人の心に顕現してくださる。なぜならばすべての如来は一切の衆生を障りなく教化されている法界身であって、身も心も衆生の中に入り満ちていてくださるからです」といい、阿弥陀仏を観想することができるのは、仏が法界身であるからだと説かれています。
そして仏を観想すると三十二相・八十随形好をそなえた仏がその心の中に現れてこられて、その心が三十二相・八十随形好になるから、心が仏を作りたてまつるといえます。
それを経には「是心作仏」といわれたのです。また仏を想う心のすみずみにまで満ちたまい、この外に仏はいまさぬから、この心そのままが仏であるといえます。だから経には「是心是仏」と説かれたわけです。
このように完全に真実をさとりつくし、海のように深広な智慧を持つ如来が観想するものの心想のなかに出現したまうことは、まるで心から仏が生ずるに似ていますから、経には「仏は心想より生ず」といわれたのです。