【本願力回向】
親鸞聖人は『教行信証』の「教巻」の冒頭に真宗の綱格を示して
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(『註釈版聖典』p.135)
「浄土真宗」とは、阿弥陀如来の本願力をもって衆生にはたらく教法のことである。この阿弥陀如来のはたらきには二種がある。一つは往相回向、二つには還相回向である。往相回向とは、阿弥陀如来が本願力をもって、衆生に真実の教・行・信・証を与えて救うはたらきをいう。
と述べられています。つまり私たちの往相・還相のすべてが本願力(他力)によることを示すものです。そして「証巻」のはじめには
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(『註釈版聖典』p.307)
さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。
とあり、煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群生である私が、本願力回向の信心とその後一生涯相続する念仏をいただけば、そのたちどころに正定聚の数に入ることができるというのです。つまり、信心をいただいたその時に成仏が決定した仲間に入ることができるのです。
しかも「信巻」には
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。(『註釈版聖典』p.264)
念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。
とあって、念仏者は本願力回向の信心をいただいているのであるから、臨終の一念には阿弥陀仏と同じさとりを開くことができるというのです。
さらに「証巻」には
還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり(『註釈版聖典』p.313)
還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。
とあります。つまり浄土に往生しさとりを開いた往生人は、さとりを開いた後に従果降因(果より因に降り)し、大慈悲心をはたらかして浄土より娑婆に還相し利他教化をするというのです。このように私たちの往生成仏に関わる一切が本願力回向であることが示されています。
では、親鸞聖人が一般的に行われる死者への追善供養・追善回向に関してどう考えておられたのでしょうか。これについて、親鸞聖人が直接お書きになったものはありませんが、『歎異抄』の第五条には出てきます。
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。(『註釈版聖典』p.834)
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありません。というのは、命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であったのです。この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです。念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
とあるのがその記述です。念仏を回向して、亡くなった父母を救おうとする追善回向とか、追善供養といわれるような念仏を否定されています。追善回向・追善供養を否定される理由として、次の二点を挙げています。
まず第一点として、父母を救うということは、実は一切衆生を救うという意味を持つのであるから、到底凡夫にはできません。
第二点は、念仏は他力回向の法であり、自らが造った功徳ではないので、先亡者に施すといった性格のものではないということです。
そして本当に衆生を救うとは、まずわが身が他力念仏の教えを聞き、浄土のさとりを完成した上でのことである、とさとされています。
蓮如上人も『御一代記聞書』179条の中で、念仏について
蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。(『註釈版聖典』p.1287)
蓮如上人は、「信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。他宗では、亡き親の追善供養のため、あるいはまた、あれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っている。けれども、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。
と示されているように、他宗では、亡き親の追善供養のため、あるいはまたあれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っていますが、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせして称えるのが念仏であると説示されています。
『歎異抄』第五条にもあったように、私たちが本当に人々を救うことができるのは、本願力回向の信心をいただき、臨終の一念にさとりを開いた上のことでしかないのです。
私たちの往生成仏に関わる一切、つまり往相・還相の一切が本願力回向と示されるのですから、私たちはただその法を聞いていくしかありません。それを葬儀・年回法要の場で説いていくことが大切であると思われます。
浄土真宗の葬儀や年回法要にも、有縁のものが集まりともに故人を偲ぶという意義もあります。住職が家族・親族の心情を汲んでいかなければならないことは当然のことです。肉親を亡くし失意のどん底にある遺族の気持ちを癒すのも住職の役割でしょう。失意に沈んでいる遺族の苦悩を聞き、真宗の立場から苦悩解決のてだてを説いていかなければなりません。それができるのは日頃から意志疎通のできている住職しかいないのではないでしょうか。具体的な接し方はご門徒を熟知している住職が一番分かっていることでしょう。
例えば「墓参り」という行動について、それが「民俗宗教性」にもとづくものであるのか、それとも「真宗信仰性」にもとづくものであるのか、という点について、真宗門徒では単に「民俗宗教性」ばかりでなく、その両面にかかわっていることが指摘されています。これは住職の伝道・教化活動の結果によるものでしょう。
同様のことは年回法要の場合でもいえるのではないでしょうか。一般的な受け止めである年回法要を追善供養・追善回向の場としての認識に終わらせるか、あるいは仏法聴聞の場として認識してもらうかは、ひとえに住職の伝道・教化活動いかんにかかっているのかもしれません。
【「年回法要の意義①~⑤」参考・引用】
『真宗における伝道』(「浄土真宗における年回法要の意義について」/ 普賢保之)
『真宗聖教全書』
『註釈版聖典』
『註釈版聖典 七祖篇』
『浄土真宗辞典』
『季刊せいてん』
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