現代は家族や地域社会のつながりが希薄化し、家族や地域社会における集団的な活動が少なくなっているにもかかわらず、葬儀や年回法要には人々が集まります。
その理由については、社会的、相互的な義務の関係という面があることを否定できないものの、それだけに止まらず、個人の死がある種の超越性をもった聖なる光彩を放ち、生命の尊厳とはかなさ、故人および遺族との縁が縁者に鮮明に浮かび上がり、葬儀あるいは法事に駆り立てる面があるのではないでしょうか。
人が集まる理由が、受け継がれてきた社会的、相互的な義務の関係にしろ、宗教的な意義がそこにあるにせよ、人々がかつてほど仏教に触れる機会を持たなくなった現代においてなお葬儀や年回法要には多くの人々が集まっているという事実にこそ注目すべきでしょう。
宗派の実施したアンケートによると「住職・坊守に期待すること」でもっとも多いのは「真宗の教えをわかりやすく説いてくれること」といいます。
次いで二番目には、葬儀や年回法要の際に親身になってくれることをあげています。葬儀や年回法要に関わらない住職はいません。住職が一人でも多くの人に法を伝えていく使命を担っているということを考えるとき、この調査結果は、葬儀や年回法要の場面で住職や坊守がご門徒に親身になって関わることによって、そこが伝道の場としていかに絶好の機会となり得るかを示すものです。(ここでは特に浄土真宗における年回法要について考えていきます)
【追善供養・追善回向】
浄土真宗の年回法要の意義は、先祖の追善供養ではありません。しかし一般的には年回法要は追善供養・追善回向として理解されています。そこでまず追善供養・追善回向という言葉の意味から考えてみます。
「追善」とは追薦の俗用で、死者の冥福のために、死者にゆかりのある生存者があとから追って善事を実践する仏事をいいます。
「回向」とは功徳を他にめぐらし、さし向けることです。仏教では普通、自己が行った善根をめぐらしひるがえして、一切衆生のさとりのためにさし向けることをいいます。つまり自分のおさめた善行・功徳をさとりに向かってめぐらす行為のことです。
慧遠(えおん|中国廬山の学僧)の『大乗義章(だいじょうぎしょう)』(大正大蔵経44巻、p.636c~p.637c)には菩提回向、衆生回向、実際回向について説明があります。
○菩提回向|自分が修行して得た功徳をもって自身のさとりの完成をめざすことをいいます。
○衆生回向|自分が修行して得た功徳を他の人々に与えてさとりを開かせようとすることです。阿弥陀仏が名号を回向して一切の衆生を救済されようとされるのも如来の衆生回向であり、生者が亡者に善根を回向する追善回向もこれにあたります。
○実際回向|衆生回向によって自分が涅槃の境地に至ろうとすることをいいます。
「供養」とは本来「尊敬すること」「礼拝すること」「尊敬をもってうけること」の意味です。そこからしだいに尊敬の念をもって仏陀や教法、僧伽に対して飲食や灯明、衣服、薬、房舎(宿舎)などを献上することを供養というようになり、在家信者のなすべき大事な徳目となったのです。それが時とともに変容し死者儀礼として一般に定着し、それを追善供養とか追善回向というようになりました。
この追善供養・追善回向について説かれた経典もあります。
○『優婆塞戒経(うばそくかいきょう)』巻5(大正大蔵経24巻、p.1059c)
もし父喪し已りて餓鬼中に堕つるに、子為に追福すれば、當に知るべし即ち得。―中略―この故に智者は応に餓鬼の為に勤めて福徳を作し、若しは衣食・房舎・臥具・資生の須ゆる所のものを沙門・婆羅門等の貧窮乞士に施し、それが為に呪願してそれをして福を得せしむべし。是の施の願の因縁力を以ての故に、餓鬼に堕せる者は大勢力を得て施すに随ひて随ひ得。
もし父親が亡くなって餓鬼の世界(飢えと渇きに苦しむ世界)に落ちてしまったとしても、子どもが父親のために追善供養(善行)を行えば、父親はすぐにその功徳を得られるのだと知るべきである。 ―中略― だからこそ、知恵のある者は餓鬼となった者のために努めて功徳を積むべきである。あるいは、衣服や食事、家屋、寝具といった生活に必要な物資を、出家した僧侶やバラモンなどの貧しい修行者たちに施し、餓鬼のために祈りを捧げて、彼らに功徳を得させるべきなのだ。このように施しを行い、祈りを捧げるという「因縁(行為の結びつき)」の力があるからこそ、餓鬼の世界に落ちた者は大きな力を得て、現世で行われた施しに応じて、その功徳を受け取ることができるのである。
○『大乗本生心地観経(だいじょうほんじょうしんじかんぎょう)』巻3(大正大蔵経3巻、p.302b)
その男女の追勝福を以て大金光あり。地獄を照らす光中に深妙の音を演説して、父母を開悟し発意せしむ。昔の所生に常に罪を造りしを憶ひ、一念悔心するに悉く除滅す。口に南無三世仏と称し、無暇苦難の身を脱することを得。人天に往生して長く楽を受け、見仏聞法してまさに成仏すべし。
遺族である子どもたちが営む、優れた追善供養の功徳によって、大いなる金色の光が現れます。地獄を照らし出すその光の中で、奥深く素晴らしい教えの声が説き明かされ、地獄に落ちた父母を真理に目覚めさせ、仏道へ向かう心を起こさせるのです。 父母が生前に幾度となく罪を犯してきたことを思い出し、一瞬でも心から悔い改めたならば、その罪はすべて消え去ります。そして口に「南無三世仏(過去・現在・未来のすべての仏様に帰依します)」と唱えることで、休む間もなく苦しみを受け続ける地獄の身から抜け出すことができるのです。こうして人間界や天上界といった良い世界に生まれ変わって長く安楽な日々を送り、仏様にお会いして直接その教えを聞き、最終的には必ず成仏することができるでしょう。
○『潅頂経(かんちょうきょう)』巻10(大正大蔵経21巻、p.529c)
命終の人、中陰の中に在りて身小児の如し。罪福未だ定まらず。為に修福して、亡者の神をして十方無量の剎土に生ぜしめんと願ずれば、此の功徳を承けて必ず往生を得。
亡くなった人は、死後から次の生を受けるまでの期間(中陰:四十九日間)におり、その姿はまるで小さな子どものように無力で心細いものです。生前の罪や善行による次の行き先も、まだ決まっていません。 だからこそ残された者が、故人のために追善供養を行い、「亡き人の魂が、あらゆる方向にある無数の仏の世界へと生まれ変われますように」と心から願うならば、亡き人はその祈りの功徳を受け取り、必ずや清らかな浄土へと生まれ変わることができるのです。
○『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』(大正大蔵経16巻、b~c)
仏の言さく、「汝の母は罪根深結なれば、汝一人の力の奈何んともする所に非らず、汝、孝順の声天地を動かすと雖も、天神・地神・邪魔外道・道士・四天王神も亦奈何ともする能はず。當に十方衆僧の威神の力を須ひば乃ち解脱することを得べし。吾今當に汝が為に救済の法を説き、一切の難、皆憂苦を離れ、罪障消除せしむべし」 仏、目連に告げたまはく、「十方眾僧、七月十五日僧自恣の時に於いて、當に七世の父母、及び現在父母厄難中の者の為に飯百味五果汲灌盆器香油錠燭床敷臥具を具へ、世の甘美を尽くして以て盆中に著け、十方の大徳衆僧に供養すべし、―中略― 其の此等自恣僧を供養すること有らん者は、現在の父母、六種の親属、三途の苦を出づることを得、時に応じて解脱し、衣食自然ならん。若し復、人有って父母の現在する者は、福楽百年、若し已に亡ぜる七世の父母は天に生じ、自在に化生し天の華光に入り、無量の快楽を受けん」―中略― 是の時目連の母、即ち是の日に於いて一劫の餓鬼の苦を脱ることを得たり。
お釈迦様は目連(もくれん)におっしゃった。 「お前の母親は生前の罪が非常に深く結びついているため、お前一人の力ではどうすることもできない。お前の親を想う孝行の声が天地を動かしたとしても、天の神や地の神、悪魔や異教の神々、あるいは四天王であっても、彼女を救うことはできないのだ。どうしても、あらゆる世界にいる多くの僧侶たちの、大いなる威徳の力を借りなければならない。そうして初めて、母親は解放されるのである。さあ、私がお前のために救済の法を説き、すべての困難や憂い苦しみから離れさせ、罪の障りを消し去ってあげよう」 お釈迦様はさらに目連に告げられた。 「あらゆる世界にいる僧侶たちが夏の修行を終える日(7月14日の自恣の日)に、七代前までの先祖や、現在生きているけれども苦難の中にある父母のために、百味の飲食や五つの果物、水差しやたらい、香油、灯明(ろうそく)、そして寝具などを準備しなさい。この世のあらゆる美味を集めてお盆(お供えの器)に盛り、世界中の徳の高い僧侶たちに供養するのだ。 ―中略― このように、修行を終えた僧侶たちに供養を行った者は、現在の父母や六種の親族が、地獄・餓鬼・畜生という三悪道の苦しみから抜け出すことができ、ただちに解脱して、衣食が自然に備わるようになるだろう。もしその人の父母が現在生きているならば、百年にわたって幸福と安楽を得る。もしすでに亡くなっている七代前までの先祖であれば、天界に忽然と生まれ変わり、天の華やかな光に包まれて、無限の喜びを受けるであろう」 ―中略― こうして目連の母親は、まさにこの供養を行ったその日のうちに、永遠とも思えるほど長い「餓鬼道」の苦しみから抜け出すことができたのである。