宗教と利益

宗教と聞いて「ご利益(りやく)」「利益(りやく)」ということを思い起こす人も多いのではないでしょうか。


しかし宗教のすべてが利益を説くわけではありません。キリスト教やイスラム教など、普遍宗教といわれるもののうち、利益を説くのは仏教だけです。

そもそも「利益」とは仏教語なのです。


身近な「ご利益」といえば「合格祈願」「安産祈願」を謳う神道も『古事記』や『日本書紀』を読み解くと本来は利益を説く宗教ではなかったことがわかります。


キリスト教やイスラム教が神の名の下に歴史を解釈することを基盤としているように、神道もまた日本の歴史に深く関わりながら、土着の信仰や祖霊信仰と結びついて発展してきました。
それらの宗教においては、基本的に利益が説かれることはありません。


神道が利益ということと結びついて考えられていくのは、神仏習合が顕著になるなかで、神社などにおいて個人的な祈願が行われるようになった、平安時代以降からのことです。


それ以前は、神はあくまで「共同体にとっての神」であり、個人が神社などに参拝するのは祭りのときでした。

その行為も個人の所属する共同体が厄災などを忌避するためのものであったといいます。


一方で現代の私たちが「現世利益」と考えるものは「共同体の厄災忌避」のためではなく、個人的な願いを神仏の力において成就させようとするものです。

これは日本におい仏教伝来時より仏が日本の神と同質視されたことに由来します。仏教の説く利益が神道に影響を与えて、神道において個人的な祈願が行われるようになったものと考えられます。

やがて「利益」の語は現世における個人的な願望を神仏の力において成就することと受け取られるようになりました。


しかし仏教の説く利益は、もともとの意味からすれば個人的な祈願と直説結びつくものではありません。

「利益」とは本来「仏・菩薩が功徳を与えること」であり、それはそれぞれの仏・菩薩の誓願にもとづきます。


そのはたらきは自らに向けてなされるものでもあるが、仏・菩薩の性格上、基本的には他者に向けてなされるはたらきについて「利益」という言葉が用いられます。

迷いの世界を流転し続ける衆生に対して、仏さまが自らの誓願にもとづき、さとりに向かわせようとするはたらきが「利益」であり、個人的な祈願は関与しないものです。


個人的な祈願が説かれるものにインドのヒンドゥー教や中国の道教があります。


インド仏教においても、バラモン教やヒンドゥー教との関係性を深めていくなかで「真言」「陀羅尼」を唱えることにより現世の利益を成就する密教が成立しました。

密教が説く利益は最終的にさとりに向かうことにつながっていくのかもしれません。
ですが実際のところは仏教が「利益」という言葉で示そうとした本質的な意味とは違うように思います。


「仏が衆生を利益する」「菩薩が衆生を利益する」という本義の示すところは、衆生をさとりへ向かわせようとするはたらきです。決して衆生の現世における欲望や願望の成就を意味することはありません。


浄土教における利益とは「阿弥陀如来がその本願にもとづいて衆生を利益すること」です。

『教行信証』における引用文中の「利益」の用例は、ほとんどが阿弥陀如来を主語として述べられています。
これらは現世における個人的な願望の成就、いわゆる現世利益を説くものではなく、仏教における「利益」の本義から離れるものではありません。


このように「阿弥陀如来が衆生を利益する」という文脈以外に、特に親鸞聖人ご自身の釈において「阿弥陀仏の利益を受ける衆生」を主語とした立場(機受)で「~利益にあずかる」「~の利益をえる」と述べられる文があります。

つまり阿弥陀如来のはたらきを受けた衆生に生じる事態を「利益」の語で示されているのです。
衆生の側で語っていたとしても浄土真宗の利益は「阿弥陀如来がその本願にもとづいて衆生を利益する」には違いありません。衆生の現世における欲望や願望の成就、世間一般の現世利益と異なります。


ところが親鸞聖人は『教行信証』「信文類」に現生における利益について述べ、また『浄土和讃』にも「現世利益和讃」として15首を示しています。
これはどのように考えればいいのでしょうか。【続く】

〈参考『親鸞聖人の教え』より〉

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2022年12月01日