我能護汝

前回、中国の善導大師(ぜんどうだいし)が『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義(さんぜんぎ)」に示した「二河白道(にがびゃくどう)の譬え」を紹介しました。


煩悩に惑わされる私が、阿弥陀さまとお釈迦さまの導きによって救われていくご法義を、
水と火の河の中間に伸びた一筋の白い道を渡る旅人に譬えた説示です。
この二河譬にまつわる次のようなエピソードがあります。


明治時代に島地黙雷(しまじもくらい)和上という有名な学僧がいらっしゃいました。
島地和上は、西洋に留学して本願寺の近代化を進めたことで知られます。政府による仏教弾圧が行われた際には、敢然と立ち上がり信教の自由を確立されるなど、明治期の真宗に大きな足跡を残されました。


島地和上が築地本願寺に滞在していた時のことです。
和上に書をしたためて欲しいというお坊さんが訪ねてきました。

「和上さま、何か一筆、ありがたいお言葉をいただきたいのですが」

「いい言葉は何かありますかね」

「どんなお言葉でも結構です」

「そうですか。それならば、如来さまの仰せを書かせていただきましょう」


スラスラと文字をしたためる和上。書かれたのは、二河譬の「汝一心正念来我能護汝[なんぢ一心に正念にしてただちに来たれ、われよくなんぢを護(まも)らん]」というご文のようでした。
しかし、よく見ると文字が抜けています。最後の「」という言葉が書かれていないのです。

「和上さま、とてもありがたいお言葉ですが、最後の文字をお書き忘れではないでしょうか」

「いやいや、書き忘れてはいませんよ」

「はぁ……それではどういうことなんでしょうか」

「その抜けたところには、貴方の名前が入るんです」

和上の説明を聞いたお坊さんは大変喜んで書を受け取って帰りました。


阿弥陀仏が「汝」と喚びかけられているのは、他の誰でもなく、煩悩を抱えて苦悩の人生を歩む「私」です。
この「私」こそが、「汝を必ず救う」と喚びかける阿弥陀仏の目当てであると聞くところに浄土真宗という宗教の本質があります。〈参考『季刊せいてん no.103』本願寺出版社〉


我能護汝[われよくなんぢを護(まも)らん]の「我」について、親鸞聖人は

「我」の言は、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)なり、不可思議光仏(ふかしぎこうぶつ)なり。

と解説してくださっています。「尽十方無礙光如来」「不可思議光仏」とは、阿弥陀仏の徳を表す名前です。
つまり、「我」=「阿弥陀仏」です。

「汝」という言葉に対しては、

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定(ひつじょう)の菩薩と名づく。

必定の菩薩とは、「必ず仏さまになる身に仕上げられたもの」「この人生を終えたら浄土へ参って仏となるもの」「そのことがすでに定まっているもの」という意味です。
阿弥陀仏はそのように私のことを喚んでいると聖人は受け止めています。


阿弥陀仏は衆生を指さして「なんぢは罪人である」「なんぢは愚か者である」とおっしゃったのではありません。
「なんぢは必定の菩薩ですよ。もう浄土へ参って仏となる身に仕上がったものですよ」とおっしゃってくださっているのです。
それは私の持つ煩悩や悪業を肯定する言葉ではありません。いま私のいのちに満入している仏さまの徳があるからこそ、私たちは仏さまから「必定の菩薩」と喚ばれて生きる道が与えられていると聞くと、少しこの人生が尊く感じられるのではないでしょうか。

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2018年01月21日