煩悩5

親鸞聖人は自らの姿を「煩悩具足の凡夫」とおっしゃると同時に、煩悩によって苦しみ悩む人に対して、
「自らの力で煩悩を断じなさい」と罪や生き方を告げることなく、そのままに照らし、やさしい光でつつんでくださる阿弥陀如来という仏さまの救いを明らかにしてくださっています。


阿弥陀如来の光明に照らされて、真実信心をいただいた人は、凡夫には変わりありません。
ですが、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」とお念仏のはたらきとなった如来の真実が至りとどいているという意味ではただの凡夫とも言えません。


聖人は『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』で真実信心の行者を次のようにほめたたえています。

煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す、
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。
【現代語訳】煩悩をそなえた凡夫が、仏の本願のはたらきによって信心を得る。
この人はただの愚かな凡夫ではなく、泥の中に咲く白い蓮のような人なのである。

数え切れないほどの自己中心的な考え方が次々と生まれては消える──私たちの日常はこの繰り返しでしかありません。そのことに気づくことさえ難しいです。


その私が仏法に出遇うとき、煩悩に満ちみちている凡夫とは、ほかの誰のことでもなく自分自身のことであると気づかされます。
これは決して他人が頭から決めつけたり、自分で思い込んだりすることではありません。
阿弥陀如来の救いにあずかり、念仏のみ教えに生きるということは、真実に照らされて顕かとなった煩悩に満ちたありのままの私の姿を見ていくことなのです。

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2018年07月22日