戦後から続く社会の中で、「私たちの今の繁栄は、過去の犠牲の上に成り立っている」という言葉を耳にすることがあります。大災害の直後にも、「残された私たちは、犠牲になった方々の思いを無駄にせず、より良い社会を築こう」という声がよく聞かれます。
しかし、これまでに報われずに亡くなっていった方々の無数の歴史に思いを巡らせると、「犠牲の上に今の豊かな生活がある」という考えは、今を生き抜いて成功している側の「都合の良いストーリー」に過ぎないのではないか。そう感じることがあります。
実際に、過去を振り返れば、「豊かな社会」という名目の裏で、深刻な公害が起きたり、交通事故が多発したり、近年では自ら命を絶つ方が急増するといった悲しい出来事が続いてきました。例えば原発の災害等にしても、「うまくやれている」という思い込みや過信が、危機管理の甘さを生んだのでしょう。つまり、大きな災害が起こるまでは、私たちが豊かになったと思い上がるあまり、過去の犠牲を自分たちの成功ストーリーの中に都合良く意味づけてしまっていたのではないでしょうか。
もちろん、「亡くなった方の死を無駄にしない」という思い自体はとても大切なことです。けれども、「死を無駄にしない」とは具体的にどうすることなのか、ごく普通の私たちにそんなことができるのだろうかと自問自答したとき、見えてくるものがあります。
それは「人は他人の死に対して、結局のところ無力である」という事実です。この無力さを痛感することこそが、先に旅立った方々が私たちに残してくれた大切なメッセージであり、人間の限界を知るということなのでしょう。自分たちの限界を心から受け入れたところから、新しい文化や価値観が芽生えてきたのが人類の歴史です。
さらにいえば、「自分は無力なんだ」と素直に認める体験の中にこそ、先に亡くなった人と、残された無力な私が、ありのままの大きな自然の世界と調和し、ひとつになれる……そうした豊かな世界が開かれていくのではないでしょうか。
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