輪廻転生2

2021年度の西本願寺安居の会読論題から「輪廻転生」について検討します。あくまで自分の勉強用です。


前回は【題意】を確認したので、今回は【出拠】を確認します。

この論題を明らかにするにあたって、お聖教の中から「輪廻転生」を取り扱っている御文を探します。

今回は『教行証文類』「総序」&「信文類」、『尊号真像銘文』、『歎異抄』と指定があるので、このみっつのお聖教から検討します。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。(註釈版p.132 / 浄聖全2-p.7)
[現代語訳]ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。

『教行証文類』「総序」の御文です。「輪廻転生」という言葉は直接出ていませんが「経歴(経めぐる)」という「輪廻転生」と同義の言葉が登場します。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。(註釈版p.211 / 浄聖全2-p.67)
[現代語訳]ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続ける衆生は、この上もないさとりをひらくことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのある。

『教行証文類』「信文類」冒頭(大信釈)の御文です。ここにも「輪廻転生」という言葉は直接出ていませんが「流転」という「輪廻転生」と同義の言葉が登場します。

また「流転(輪廻転生)」していくのが「凡夫(凡愚)」「衆生(群生)」であることも示されています。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。(註釈版p.231 / 浄聖全2-p.87)
[現代語訳]ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく、迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。

『教行証文類』「信文類」の御文です(三一問答・法義釈・信楽釈)。ここもまた「輪廻転生」という言葉は直接出ていませんが「諸有輪に沈迷し」と迷いの果である「輪廻転生」と同義の言葉が登場します。

「諸有輪」の「諸有」とは「三有」「二十五有」という迷い境界のことです。凡夫は煩悩悪業によって果てしなく迷いの境界を輪廻転生することから、車輪に喩えて「諸有輪」といいます。

『教行証文類』「信文類」には、他にも多くの「輪廻転生」を扱う御文が出てきます(至心釈、欲生釈、横超断四流釈など)が、ひとまず本記事ではこの辺りのご紹介にとどめます。


次は『尊号真像銘文』から「輪廻転生」の出拠を探します。

「去」はすつといふ、ゆくといふ、さるといふなり。娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれてゆきさるといふなり。(註釈版p.646 / 浄聖全2-p.608)
[現代語訳]「去」は「捨てる」といういことであり、「いく」ということであり、「さる」ということである。娑婆世界を断ち切って、生まれ変わり死に変わりし続けてきた迷いの世界を超え離れて行き去るということである。

『大経』下巻の「必得超絶去」の「去」を釈した御文です。「流転生死」とあるのが「輪廻転生」を示します。

「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは、一に卵生、二に胎生、三に湿生、四に化生、五に有色生、六に無色生、七に有相生、八に無相生、九に非有色生、十に非無色生、十一に非有相生、十二に非無相生]にとどまるとなり。いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。(註釈版p.666 / 浄聖全2-p.642)
[現代語訳]「生死之家」とは生まれ変わり死に変わりし続ける迷いの世界のことをいうのである。「以疑為所止」というのは六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。

『選択本願念仏集』の「当知生死之家 以疑為所止」を釈した御文です。

ここもまた「輪廻転生」の語はありませんが「六道・四生・二十五有・十二類生にとどまるとなり」「ひさしく世に迷ふ」と、「輪廻転生」の義が述べられています。


最後に『歎異抄』から「輪廻転生」の出拠を探します。

『和讃』(高僧和讃・七七)にいはく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。(註釈版p.847 / 浄聖全2-p.1069)

『歎異抄』第十五条です。「輪廻転生」のような普段あまり扱わない論題は、和上がどこを出拠に指定するのか、まったく読めません。ひとまず「輪廻」と出てくる御文をあげました。

一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。(註釈版p.834 / 浄聖全2-p.1056)

『歎異抄』第五条です。内藤知康和上の安居会読論題勉強会では、こちらが出拠となっていました。

「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」「六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめり」と「輪廻転生」について示されています。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義 四五七)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。(註釈版p.853 / 浄聖全2-p.1074)

『歎異抄』「後序」です。こちらもまたとある勉強会で出拠として紹介されていました。

善導大師『観経疏』「散善義」の文から「われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へる」と続く箇所が、「輪廻転生」を表わしています。


幾つか【出拠】を検討してみました。

会読ではこれらの中から特に中心となる「正しき出拠」を選ばなければいけません……が、まだ考察中です。恐らく「信楽釈」かと思うのですが。。。

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2021年07月24日