『季刊せいてん no.154』が発刊されました。
今回の特集は「浄土ってなんだろう?」です。
「浄土三部経」や『浄土論』には、阿弥陀仏の浄土の様相がきらびやかに説かれます。 そのなか『阿弥陀経』では、浄土が「大切な方とまた会える世界」であるとも示されます。
一方で親鸞聖人は、浄土は仏のさとりの世界であり、私たち凡夫には関知できない領域である――そのように理解されることがあります。これらの教説はどのように関係し、私たちは浄土という存在をどういただいていくべきなのでしょうか。
今号では、浄土真宗においてまさに要となる「浄土」の問題に、正面から向き合っていきたいと思います。
……という特集です。
巻頭に本願寺派勧学である普賢保之(ふげんやすゆき)和上の「現代と浄土」という文章が掲載されていました。
AIなどに象徴される科学技術の進歩は目覚ましい。そうした現代にあって、浄土の存在を信じることは、最早不可能だと考える人もいるかもしれない。
しかし、医師の小松秀樹氏は次のように述べている。
人間は必ず死ぬ。これはいかに医療が進歩した今でも、抽斎(ちゅうさい)[註|渋江抽斎。江戸時代末期の医師]の時代と変わりません。生老病死(しょうろうびょうし)が人生において不可避のものであることを、常に意識すべきです。死は欲望を空(むな)しくし、個人のいさかいに終止符を打ちます。死に対する覚悟は、人を成熟させます。 しっかりした宗教は、人間を死と直面させる。まともな文明は、死を見えない彼方に追いやりはしません。(『医療の限界』新潮新書 p.20)
日々、人の生死に直面している医師の言葉である。現代は死が見えにくくなっているのかもしれない。だからといって人間が死ななくなったわけではない。科学技術が如何に進歩しようと、死の問題を避けて通ることはできない。死について考えることは生について考えることでもある。
親鸞聖人の主著である『教行信証』「教文類(きょうもんるい)」冒頭には、
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相(げんそう)なり。 往相(おうそう)の回向(えこう)について真実の教行信証あり。(『浄土真宗聖典 (註釈版)第ニ版』p.135)
とある。 浄土真宗の綱格(こうかく)を示す文である。このご文の意味は、
「浄土真宗」とは、阿弥陀如来の本願力をもって衆生にはたらく教法のことである。この阿弥陀如来のはたらきには二種がある。一つは往相回向、二つには還相回向である。往相回向とは、阿弥陀如来が本願力をもって、衆生に真実の教・行・信・証を与えて救うはたらきをいう。
となる。還相回向についても言及すれば、還相回向とは、浄土に往生して阿弥陀仏と同じさとりを開き、苦悩の衆生を救うためにこの娑婆(しゃば)世界に還ってくることをいう。そうすると、浄土を否定して浄土真宗は成立しないことになる。
仏教では人生は苦と説く。その苦を四苦八苦(しくはっく)と示している。四苦とは、まず生まれる苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみの四つである。それに愛しいものと別れなければならない苦しみ、怨み憎むものと会わなければならない苦しみ、求めても得られない苦しみ、人間の心身を構成するものから起こる苦しみの四苦を加えると八苦となる。人生はまさしく苦そのものである。
親鸞聖人の妻、恵信尼(えしんに)様が末娘の覚信尼(かくしんに)様へ送ったお手紙には、聖人は二十年間自力の修行をされた比叡山を下り、六角堂に百日間参籠(さんろう)された後、雨の日も、風の日も、吉水(よしみず)で念仏の教えを説かれていた法然(ほうねん)聖人のもとへ百日間通われたことが認められている。そして、親鸞聖人は二十九歳の時、苦を解決する教えとして、法然聖人の説かれる念仏の教えに帰依されたのである。
しかし、『歎異抄』の第九条には、「いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為(しょい)なり」(『浄土真宗聖典 (註釈版)第ニ版』p.837)とある。これは親鸞聖人ご自身の体験を記したものである。少しでも病気を患うと、死ぬのではないかと心細くなる、と吐露されている。しかし、心細くなるのは煩悩のせいであると、ありのままの自分を受け入れている。念仏の教えは、信ずれば死も怖くなくなるといった教えではない。「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」には、私たち凡夫の姿を、
「凡夫」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず(『浄土真宗聖典 (註釈版)第ニ版』p.693)
と示している。阿弥陀仏は念仏の教えを通して、煩悩にまみれた私たち凡夫の姿を明らかにし、その私たちをそのままに救い取ってくださるのである。死に怯える私たち凡夫をそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀仏なのである。
『教行信証』の「真仏土文類(しんぶつどもんるい)」では、阿弥陀仏とその浄土について明かされている。真仏土を明かされるのには二つの意義がある。「往生門(おうじょうもん)」と「正覚門(しょうがくもん)」である。
「往生門」とは、私たちは教に示された行と信の因によって証(さとり)という果を開くが、その場所を真仏土とする見方をいう。
「正覚門」とは、阿弥陀仏のはたらき(他力)の根源が真仏土であるとする見方である。換言すれば、真仏土は、阿弥陀仏のさとりの世界であり、そこから衆生救済のはたらきが教・行・信・証として展開する見方をいう
そうすると、親鸞聖人が示される真仏土、つまり浄土を否定しては、他力もないことになる。他力は認めるが、浄土は認めないことなどあり得ないことなのである。
これは随分前の話になるが、私がマンションの管理組合の役員を務めていた頃、役員の一人が全員そろった席で、「普賢さんは本当に浄土の存在を信じているの?」と尋ねてきた。僧侶としてやり過ごすことはできないと思い、浄土について説明した。後日、質問した本人が「あの時、もし普賢さんが笑ってやり過ごしていたら軽蔑したよ。説明されても俄(にわか)には信じられないけど、説明してもらって嬉しかった」と言ってくれた。ストレートな言い方ではなかったが、浄土はいかなるものかということを問い掛けた質問だったのだろう。
現代人は浄土の存在など信じていないと考えるのは早計である。科学技術の進歩は私たちの生活を随分便利にしてくれた。医療技術の進歩によって昔は不治の病とされていた病も治るようになった。寿命も延びた。それでも人は老い、患い、死んでいく。愛しい人との別れは辛い。欲望が叶わなければ苦しい。気持ちが通じ合う仲間ばかりではない。人間そのものは昔と何ら変わっていない。それにも関わらず、現代人の姿は、まるで燃えさかる家の中で遊びに興じる子どものようでもある。遊びに興じている間はいいが、その時間もある時突然断ち切られる。科学技術の進歩に翻弄される人生では空しい。
理学療法士の三好春樹氏は、『老人介護常識の誤り』(新潮文庫)の中で次のように指摘している。
私たちは、近代の光の強烈さに眩惑(げんわく)されて影の部分が見えなくなっているのだろう。
正鵠(せいこく)を得た言葉である。人間の影の部分を照らす光が、浄土を根源とする阿弥陀仏の光明(こうみょう)なのである。
【参考・引用】 『季刊せいてん no.154』