先日、青年布教使の研修会で福井県を訪れました。
江戸時代の西本願寺における最高学職「能化」を務めた功存の生まれたお寺である明正寺にお参りをしました。功存(1720~1796)は越前国今立郡小坂村(現・福井県鯖江市?)明正寺に生まれました。
功存は第六代能化であり、越前(福井県)平乗寺の住職です。字は子成、霊山と号しました。
若い頃から教順寺卞関(1676~1738)と平乗寺慧鐺(1694~1751)に師事し、18才の時に学林に入って法霖に師事します。
その後、しばしば学林で講義をしましたが、1762年に越前(福井県)で起きた異安心問題を治めた内容を『願生帰命弁』として出版します。これが三業惑乱の萌芽となる書物です。が、この本は異安心問題をおさめた書として一定の評価を得て、功存は1769年に能化に就任することになります。
また、功存は第17代宗主・法如上人から「実明院」の院号を賜ります。生前に院号を賜る学匠は功存が初めてでした。当時、功存がどれだけ評価されていたかが知られます。
三業惑乱の混乱は、功存が存命中には大きく発展するに至りませんでしたが、功存は学林が不穏な空気に包まれる中、1796年に77才で往生します。功存の著作は『安楽集太田録』『往生論註風航記』『正信偈聞記』『御文聞書』『願生浄土義』『他力信行問答』など約六十部があります。
前述した通り浄土真宗最大の法論である「三業惑乱」の発端は、1762年に後に能化となる功存が、越前の龍養(生没不詳)が説いた無帰命安心の異義を治めるために法話を行い、それを1764年に『願生帰命弁』として出版したことに始まります。功存は江戸の三大法論の一つである「明和の法論」でも智暹と対論しています。
当時、本願寺を悩ませていた問題の一つが、北陸越前(現・福井県)の「無帰命安心」という異安心でした。それは龍養という人物が広めていたと伝えられています。
無帰命安心とは『浄元寺龍養異解始末』(龍谷大学蔵)によると「ただ助けたまう本願ぞと思いて疑いなく、ああと信ずるばかりなり」とあります。『大経』における「阿弥陀如来が十劫の昔に成仏している」という教説を「ああ」と信じるだけでよい……いわば、経典の内容を知的に理解するだけで救いが完了するという帰依を否定する偏った教えだったのでしょう。
この異安心を破るために本願寺が派遣したのが、当時学林で43歳という壮年期を迎えていた、同じく越前出身の功存です。1762年、功存は北陸へ出向くと見事に龍養の説を破りました。さらに越前国中の僧侶たちを集めて、2日間にわたって計4座の総括と法談を行ったのです。この法談の記録が後に『願生帰命弁』として出版されます。
功存が『願生帰命弁』の中で述べているのが、願生帰命・三業帰命説でした。この説は、簡単に言えば、救われるためには「浄土に生まれたい」と一心に思わなければならないし(願生帰命説)、身口意の三業、身には礼拝し、口には「たすけたまへ」と言い、心(意)には「どうか浄土に生まれさせてください」と思う、このような行為によって帰依したことを表現しなければならないというもの(三業帰命説)です。これによって、帰依を否定する龍養の説を退けたわけです。
しかし、功存の説はどう聞いても「わが身をたのみ、わがこころをたのむ」(『註釈版』688頁)という自力ではないでしょうか。
当然、功存も阿弥陀仏のはたらきによって救われるとは述べます。ところが私たちが浄土を願い、三業で帰依した時点をもって往生が定まるとするわけですから、当然、救いの因には自力、衆生の行為が介入することになります。ここが三業惑乱の焦点です。
三業に表現することが異義なのではなく、三業に表現したから救われるという、救いの条件として衆生の行為を介入させるかどうかが問題だったわけです。これはよく三業惑乱を勘違いするポイントです。救いの成立に衆生の行為が関わるかどうかです。ですから、私たちがお念仏することが悪いのではありません。南無阿弥陀仏とお念仏することは大切なことですし、すべきことです。ですが「お念仏したから救われるという捉え方は間違い」という問題です。なぜなら、私がしたことを救いの根拠とする自力のはからいに執われているからです。そのようなあり方は、自らを誇り、人を卑下していくあり方を生むのです。
1764年に功存が『願生帰命弁』を出版して、願生帰命・三業帰命説を破りました。これは当時も僧樸や道粋など問題にする学匠はいたのですが、功存はたくみにその批判を回避して、「願生帰命・三業帰命説は無帰命安心を破した説」として大いに称賛されました。この功績によって功存は晴れて第六代能化に就任することになったのです。1769年のことでした。
その後、興正寺末寺の大麟が『真宗安心正偽編』(1784年)を著し、また、大谷派の宝厳が『帰命本願訣』(1789年)を著して功存を批判するのですが、西本願寺内部においてはそこまで問題が顕在化することはありませんでした。その後、三業帰命説を掲げて学林を30年近く強力なリーダーシップで率いていた功存が1796年に往生すると、功存門下の智洞が第七代能化に就任しました。智洞は能化に就任するや、問題となることをしてしまいます。それは、功存がかたくなに否定しなかった「信楽帰命説」を高らかに否定してしまったのです。
親鸞聖人が拠り所とされたのは『大経』でした。その『大経』の中で最も大切なのは、阿弥陀さまの第十八願で、そこには衆生の心として「至心」「信楽」「欲生」という三心が示されています。しかし、同じく『大経』を拠り所とされた天親菩薩は、『大経』の説を受けながら、衆生の心を「一心」と示されました。
では天親菩薩が示された「一心」とは、『大経』の「三心」のどれを指すのか、それを親鸞聖人は「信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」(『註釈版』231頁)と、「一心」=「信楽」と示されたわけです。これを本願寺派では、「三心即一の信楽」と言っています。つまり、衆生の心としては「信楽」、つまり「まかせる」ということなんだと言うわけです。ですから、「一心(帰命)」=「信楽」=「まかせる」の意ですから、この説を信楽帰命説と言うわけです。
これに対して、功存は一心を欲生、つまり浄土に生まれたいという思いだと主張しました。「一心(帰命)」=「欲生」=「往生を願う」の意です。ですから、功存の説を願生帰命説や欲生帰命説と言ったわけです。功存は『願生帰命弁』を著した直後、道粋(1713~1764)という学林きっての秀才から質問を受けています。「親鸞聖人は一心を信楽で押さえられるが、あなたはなぜ欲生・願生で押さえるのでしょうか」(『真宗全書』巻62、9頁取意)と。願生帰命説の痛いところです……が、功存はたくみに返答します。「親鸞聖人が信楽で押さえられるのは存じていますし、否定するつもりはありません。しかし、今わたしは無帰命安心に対しております。ですから、信楽と欲生はイコールですので、蓮如上人が信心の姿が顕著なところをもって《たのむたすけたまへ》と欲生・願生で押さえていかれたのを参考に欲生・願生で説を立てたまでです」(同前、15頁取意)。
この「たのむたすけたまへ」=「欲生」という押さえ方も問題なのですが、ともかく、功存は親鸞聖人の理解を否定することなく、信楽=欲生という論理と蓮如上人を楯にして自説を受け入れさせたわけです。功存の肝は、信楽帰命説を否定しなかったところにあります。だから、功存批判派を押さえることができたわけですが、智洞は信楽帰命説を明確に否定し、先代能化功存から引き継いだ願生帰命説のみが正統であると言ってしまった。
ここをもって、本願寺派内部からも智洞批判の火の手が上がり、とうとう本願寺の正統(学林の説)が異安心であるという本願寺がひっくり返る大騒動「三業惑乱」となったわけです。
【参考・引用】三浦 真証『真宗教学の歴史を貫くもの:江戸時代の三大法論入門』