内省の背景

親鸞聖人が「浄土三部経」の千部読誦を行おうとした1214(建保2)年は、全国的に雨量の少ない年でした。


鎌倉時代の史料である『吾妻鏡(あずまかがみ)には、幕府が鎌倉・鶴岡八幡宮で雨乞いの祈祷を行ったり、臨済宗の栄西に雨乞いのため『法華経』読誦を命じたとの記述が見られます。

聖人の三部経読誦には、この年の深刻な干ばつに関係があるとの指摘があります。


また、それから17年後の1231(寛喜3)年は、「寛喜の飢饉」と呼ばれる大飢饉の真っ只中にありました。

この年の前年(寛喜2年)の夏は、雪が降るなどの極端な冷夏となり、秋には全国的な大凶作がおこります。
続く冬は異常な暖冬となり、冬作の麦が凶作に見舞われました。

異常気象が続き、危機的な食糧不足を引きおこし、寛喜3年の春には多数の餓死者が出て、悲惨な光景がひろがりました。


「寛喜の内省」お手紙に出るふたつの年には、異常気象という共通点があったようです。


親鸞聖人の苦悩の背景には、飢えに苦しむ人びとの存在があったのかもしれません。〈参考『季刊せいてん』より〉

合掌

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2020年05月15日