袈裟2

「袈裟」の語源に続いて、袈裟がどのように生まれたのかをたずねます。


今から約2500年前、インドにいらっしゃったお釈迦さまによって成立した仏教教団。
しかし、最初は「袈裟」のような仏弟子が共通して身につける服はなかったようです。恐らく、当時は他のインドの人たちと同じように大きな布を身体に巻き付けていただけと考えられます。


『四分律(しぶんりつ)』40巻や『十誦律(じゅうじゅりつ)』27巻には次のようなエピソードが説かれています。

お釈迦さまの教えに深く帰依した頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)が、象に乗って朝早く外出しました。
すると、途中で仏弟子らしき人を発見。早速、礼拝をしなければと象から降りたのですが、よく見るとその人は仏弟子ではなく外道(異教徒)でした。
仏典には「王羞愧」とありますので、かなり気まずく恥ずかしかったことでしょう。
王様はお釈迦さまやその弟子を異教徒と区別できるような服を着るように願いました。袈裟が生まれるきっかけのひとつです。


他にも服装について決まりがなかったため、仏弟子の中には派手な服装や豪華な装飾が目立つ人もいました。
一方で、お釈迦さまの教えを曲解して、「できるだけ質素に」「なるべく簡素に」と全裸で過ごす強者も現れたのでお釈迦さまは頭を悩ませていたことでしょう(『彌沙塞部和醯五分律』)


『十誦律』には続いてお釈迦さまと弟子の阿難(あなん)が南の国へ遊行に出た時のことが書かれています。


小高い山の上から眼下一面に広がる水田。仏典に「畦畔齊整(けんばんせいせい)」とあることから、さぞ整った風景だったのでしょう。

「阿難よ、この美しい水田風景が見えますか」

「はい、見えます」

「では、この田の形を模した法衣を作ることはできますか」

「はい、できます」

水田の風景からヒントを得たお釈迦さまの構想を、阿難が聞き受けて袈裟の原形が生まれました。


2500年前の話ですから、田の畦畔を参考にしたといっても、現在のように農地整備されて整った形ではなく、大小さまざまな形の田が入り組んでいたことが予想されます。


現代の袈裟も長い布と短い布がつなぎあわせて作られています。袈裟は田・畦をかたどっていることから「田相衣(でんそうえ)と呼ばれ、「田に種を播けば秋に収穫があるように、仏を供養すればかならず諸々の福報を受ける」という意味から「福田衣(ふくでんえ)とも呼ばれます。


他にもお釈迦さまは「割截衣(かつせつえ)という名称を用いました。
前述の通り、袈裟は複数の布をつなぎ合わせて作ります。大きな布があったとしても、わざわざ裁断(割截)してから縫い合わせます。
これは「截縷(せつる)」といって袈裟を作るときのルールのひとつです。
わざわざ手間のかかる製法で作るのは、お釈迦さまの教説に由来します。


水田風景に感動して阿難に「この風景を模した衣を作れ」と指示したお釈迦さま。できあがった衣を見ると

「阿難は深い智慧を持っている。私が簡単に告げただけで、よいものを教え通り作った。これを『割截衣』と名づけ、異教徒と区別しましょう。これなら盗賊から奪われることもない。破れても継ぎ当てをすればよい」

とおっしゃいました。


小さく裁断することで「布の価値が低くなり盗難に遭わなくなる」「補修しやすい」「異なる形状になって異教徒との見分けがつきやすい」といったメリットがあったのです。
他にも「身なりや名誉に執着しなくなる」「信者が布の端切れだけでも布施しやすくなる」といった効果を発揮したことも伝えられています。〈参考『袈裟のはなし』・『季刊せいてん』〉

合掌

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2018年02月12日