標準語

後輩に勧められて『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』という本を読みました。


「M-1」という漫才の大会で、関東の芸人が活躍しにくい理由を、関東の漫才師である著者が考察した本です。次のような一節がありました。

関東の日常言葉は感情を乗せにくい。漫才に不向きなのでは

[略]東京は西の大都市と違って、昔から、地方からの移住者の割合が非常に高い街です。
いろんな地域の言葉が混ざり合い、現在の関東の日常言葉ができあがっています。
その過程で、個性の強い江戸弁も、どんどん角が取れていったのでしょう。

江戸言葉は気の早い江戸っ子が使っていた言語ですからね。よそ者が多く住む街で江戸弁を使っていたら、あちらこちらでケンカになっていたと思います。

東京の日常言葉はまず、誰もが聞き取りやすいよう発展してきたのだと思います。
そして、もうひとつ、諍(いさか)いが起きないよう感情を読み取られにくい言葉として変化を遂げてきたのでしょう。

漫才をする上で、今の東京言葉が勢いをつけにくく、かつ感情を表現しにくいのは、そういう背景があるんじゃないかな。
上方漫才の核である「怒り」を表現するには、もっとも不向きな言葉だとも言えます。

だから僕らもヤホー漫才のように気持ちを入れない機械的な漫才に行きついたのだと思います。

関西弁の漫才師が気持ちよさそうに感情を言葉に乗せているのを見ると、正直、うらやましくなるときがあります。

今、関東の人で、すごく楽しいことを「めっちゃ楽しい」と表現しますよね。
「めっちゃ」は関西弁です。関西芸人が次々と東京に進出してきた影響で、今では関東でもすっかり定着しました。
「すんげえ」とか「ほんと」よりも、感情を込めやすいんでしょうね。


以前、「東日本の布教使の法話は有り難くない」と怒られたことがあり、いろいろと理由を考えていたのですが、「東京言葉」はひとつの理由として挙げられるでしょう。


私は東京生まれ東京育ちなので、いわゆる「東京言葉」「東京弁」しか話すことができません。有名布教使の先生や和上の法話を私が引用しても、印象が固くなってしまいます。


しかし、敢えて方言を用いたり、江戸言葉のような言い回しをすると、感情を出しやすくなることは自分でも分かります。


感情を乗せて言葉に力を持たせるのは、漫才でも法話でも大切な要素のひとつです。


東日本の布教使は、標準語で話す限り、ハンディキャップを背負っていると言っていいでしょう。


標準語のしゃべり一本で難しいとなると、「ヤホー漫才」のような変化球……板書を工夫したり、レジュメを配ったり、パワーポイントを使ったり、何かしらの+αが必要となります。

今後は東京の布教使なりの法話スタイルを考えます。

合掌

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2019年10月01日