「明日ありと思う心の仇桜」は浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が詠んだと伝えられます。「満開の桜が一夜の嵐で散るように、私たちの日常も明日にはどうなるかわからない」という意味です。思い通りになることのない人生において、どこに向かって生きればよいのかを問い直すことが浄土真宗の出発点です。
現代は科学や理性が重んじられ、あたかも自分の力ですべてをコントロールできるかのような錯覚を抱きやすい時代ですが、老い、病、死という思い通りにならない現実は厳然として存在します。仏教ではこうした事実に直面して苦悩を深め、自らの思いにとらわれて道理を見失うありようを「無明煩悩」と表現します。
浄土真宗の教えの中核は、阿弥陀如来という仏さまによる救いです。如来は、自らの力では迷いの海を脱することができない凡夫を「そのまま救う」と誓われました。
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、人間が仏にお願いをする言葉ではありません。「南無阿弥陀仏」とは仏から私への「必ず救う、我にまかせよ」という喚び声そのものです。南無とは「まかせなさい」という仏さま側からの招きと「まかせます」という人間の応答が重なり合っていることを指します。如来は果てしない思惟と修行の末に、あらゆる人間を仏にするための功徳をこの「南無阿弥陀仏」の六字に完成させたのです。
このお念仏を称える生活とは、阿弥陀如来の大きな慈悲に包まれている事実に気づき、生かされていることへの報恩感謝を表す営みです。
また、お念仏は自分自身の本当の姿を映し出す鏡でもあります。仏の智慧の光に照らされることで、私たちは自分が欲や怒りに振り回される愚かな存在であることを知らされます。
しかし、この気づきは絶望ではなく安心の根拠となります。なぜなら如来は、そのような愚かな私であることをあらかじめ見抜いた上で、「決して見捨てない」とはたらき続けてくださっているからです。
そしてこの世の縁が尽きたときには、私たちは阿弥陀如来の導きによってお浄土に生まれ、仏となります。死は空しい終わりではなく、先に往かれた大切な方々と再び会う倶会一処の世界への帰還です。仏となった者は、還相回向のはたらきとして再びこの迷いの世界に還り、残された人々を導く存在となります。
浄土真宗の教えに生きるということは、思い通りにならない現実に右往左往する自らの姿を恥じつつ、「決して独りにはさせない」という仏の喚び声に支えられ、浄土へ至る確かな人生を一日一日丁寧に歩んでいくことです。
翌月の言葉