肉眼には他の非が見える 仏眼は自己の非に目覚める

明治から昭和に活動していた曹洞宗の澤木興道という僧侶が、あるお寺で講話をしたときのことです。
終了後に会場となったお寺の住職の奥さんがおしぼりを持ってきてお礼を述べました。

「この度は大変素晴らしいお話をありがとうございました。さぞかし嫁は耳が痛かったろうと思います」

その後、しばらくして住職の息子の奥さん(お嫁さん)がお茶を運んできて、次のように話しました。

「先生、先ほどはとても有り難いお話をありがとうございました。きっとお姑さんは耳が痛かったろうと思います」

せっかく仏法の話を聞いても、聞き方が悪いと他人を非難する材料にしてしまいます。

平安時代から鎌倉時代に活躍していた法然聖人という僧侶は

松影の 暗きは月の 光かな

と詠まれました。真っ暗闇では松が立っていることも、暗い影があることもわかりません。
光があっても輝きが弱ければ影も薄いままです。
光が明るくなるほどに影は黒々と浮かびあがります。

私の中の非なるものに気付かせていただけるのは、私を照らしてくださる仏の光のおかげさまです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人はご自身のすがたを「罪悪深重」「地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃっています。
聖人を照らす光の明るさこそが、阿弥陀如来の間違いのない救いなのです。

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2023年12月01日