勧学寮講座4

勧学寮講座に参加しました。


今回は第4回目「念仏往生と信心正因」です。


浄土真宗には「行信半学(ぎょうしんはんがく)」という言葉がります。
「行」と「信」は、浄土真宗の教学の半分を占めるほど大切ということです。

浄土真宗全体を「一枚の布」で考えたときに、善導大師(ぜんどうだいし)の横糸曇鸞大師(どんらんだいし)の縦糸によって仕上がっているといわれます。
善導大師の横糸とは、まさに「行」と「信」についてです。
浄土真宗の行信のベースとなっているのは、善導大師の教えです。
そこに曇鸞大師の「本願力回向(ほんがんりきえこう)」の回向義が縦糸として加わって成り立っているのが浄土真宗のご法義です。
親鸞聖人の『教行信証』においても、特に引用されているのがこのお二方の言葉です。

ご講師は井上見淳先生。龍谷大学で教鞭を執られている若き宗学者です。
今後の浄土真宗を担っていく先生のひとりではないでしょうか。
『観無量寿経』の要点から講義が始まり、短い時間で行信論の肝要を学ばせていただきました。


うろ覚えですが、他に印象に残った部分を聞き書きします。

信心というのは、ご法義を聞いて疑いがない状態をいいます。
一般的に「信心を得る」「信心する」というと、「こういう心を作らなければならない」「心の中をこのような状態にしなければならない」「私はこのようにならねばならない」と考えがちです。
しかし、浄土真宗ではそうではありません。「われよくなんぢを護(まも)らん」「われにまかせよ」と勅命を聞いて、疑いなく受け止めている状態。これを信心といいます。

親鸞聖人は『教行信証』の中で
「教文類」では「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」、
「行文類」では「大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり」と、
「今から顕らかにする内容はこれです」とものがらを指定するにも関わらず、「信文類」にはそういった記述がありません。
なぜなら、信心とは「これが信心です」と私の心の中に何かがあるわけではないからです。
信心とは、仏勅(ぶっちょく)を聞いて疑いがないという状態があるだけです。

ですから、親鸞聖人は

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

もし何かものがらを指定するとすれば、そこには「南無阿弥陀仏」の名号があるだけとおっしゃいます。
「われよくなんぢを護らん」「われにまかせよ」と名号が心に届いているだけで、私の心に何かあるわけではありません。
私が名号を聞いて疑いのない状態があるだけなのです。そのように教えてくださっています。

[中略]

親鸞聖人は「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の中で法然聖人の言葉を

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。

と引いています。
これは浄土真宗のご法義は「廃悪修善」ではなく、「信疑決判」であることを示しています。
「悪を廃して善を修する」ではなく、「疑うか信じるか」です。「如来の救いを疑うものは流転し、信じるものは浄土へ生まれていく」、私の器(うつわ)は関係ありません。受け入れるかどうか、そこが問題となります。

他のご宗旨は違います。「廃悪修善」です。「煩悩があるなら消しなさい」と教えます。
例えば、二河白道のように目の前に煩悩が火の河と水の河として立ちはだかれば「鎮めなさい」と教えるのが一般的な仏教です。
しかし、浄土真宗では「声にまかせてそのまま歩め」といいます。

他にも「正信偈」には

貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

とあります、「むさぼりといかりの雲や霧がいつも天を覆っていて太陽は見えないが、雲の下は光が届いていて真っ暗ではない」といいます。
煩悩を突き破って光が私に届いてくださるから見通しが立っているんです。
一般的な仏教であれば、「貪愛・瞋憎の雲霧を晴らしなさい」と教えます。

また、

摂取の心光、つねに照護したまふ。
すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。

この6句には典拠となる文が「正信偈」で唯一ありません。
つまり親鸞聖人のオリジナルです。

ある日、曇り空を見て阿弥陀さまを想った日が聖人にはあったのでしょう。
「これこそがそうであった。太陽は見えないが、見通しがたっている」
そんな風に味わわれた日があったはずです。

浄土真宗は「信疑決判」です。「廃悪修善」ではありません。
「そのまますくう」の光が届いているんです。

合掌

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2018年11月19日